(5) 往年の手賀沼・生活聞き取り

       「伝えよう手賀沼を」第2集 53〜57ページの内容から掲載したものです。



      次の方々からお話をうかがいました。


 (1)  「舟はこわれてしまったし、今じゃ作る気もしねえ」


       −手賀沼西部−    我孫子市根戸新田      浅 野 さん

 (2)
 
「家の天井は水害に備えて釘を打っていない。」

        ー手賀沼中央ー    我孫子市高野山      鈴  木 さん

 (3)  「かも猟が盛んだった手賀沼」


       −我孫子市浅間前新田−               桜 井 さん

 (4) 
「水車があった大津川流域・上流水源池」


       −大津川上流    鎌ヶ谷市初富入道池−    皆  川  さん ・ 斉 藤 さん

 (5) 
「清水がいっぱい湧いていて水(農業用水)に不足しなかった

       −柏市名戸ヶ谷−                    木 村 さん

 (6)  「聖井戸という清水があった

       −柏市名戸ヶ谷上郷−                 薮 崎 さん

 (7)  「農業用水として大切にしていた川に生活排水が流し込まれて
      米作りができなくなった」


        −大堀川上流 流山市駒木台−           鏑 木 さん

 (8)  「大堀川の流域が工場排水の油で燃え上がった」

        −大堀川中流−                    山 沢 さん

 (9)  「鮒や鯉が群をなして上っているのが見えた」


       −大堀川下流−                    染 谷 さん

     
   生活聞き取り

 (1)  「舟はこわれてしまったし、今じゃ作る気もしねえ」

   −手賀沼西部−我孫子市根戸新田 浅野さんの話 85歳

        旧武者小路実篤邸のすぐ下の浅野さん宅を訪ねた。

  「武者小路さんがいた頃は、私は30歳前後だったな、私の父親は、武者小路さんの女の子を我孫子の学校へ舟で送り迎えしていた。志賀さん(志賀直哉)や柳さん(柳宗悦)のところへしょっちゅう行っていたんだけれど、私が舟をこいで送り迎えしていた。この上の屋敷の中にテニスコートを作りよくやっていたね。大杉様のお祭りの時、村の若いもんを全部呼んで、若いもんが、はやしをきかせたらとてもよろこんでいた。この村のもんは先生のことをお殿様と言っていた。ふだんは生きが違うんで(子爵)、村のもんは行けなかった。書生がたくさんきていて、女中は二人いたね。ここから、九州の新しい村に出発したんだ、その頃は沼もきれいだったね。」「この辺の田の水はツキヌキを使っていた。沼の水も風車を使ったりしていたが、風車は風が強いとこわれてしまってあまりうまくいかなかった。ツキヌキの水は冬は温かくてゆげが出ていた。今は地下水位が下がってしまって電動のポンプを使っているけど、昔はボコボコと音を立てて自然にわき出していたんだよ。」

 「沼はむかしはきれいだったね。六尺も一丈も下の底が見えて、泳いでいる魚も見えたんだよ。モク(藻)もいっぱいはえていた。今はモクもはえていねえし、魚もいねえ。漁業をやっていたけど、手賀沼のウナギはうまくて有名で東京さ出していた。コイも大きいのがとれたね、今はもう魚をとる気もしねえ、とっても臭くて食べられないし、道具もこわれちゃった。第一舟がない、舟がみんなこわれちゃったし、もう作る気にもならない。」
 「田や畑にモクを入れれば肥料は何もいらなかった。だから、夏いっぱい、毎日モクとりしていた。作物の陽よけにもなっただ。里イモなんかおいしいものがとれた。化学肥料だと里イモがやわらかくてみんなくさっちゃう、味もよくないしね。」

 「若い頃、月見と言って、十五夜の晩、舟を二艘つないで沼にこぎ出し、太鼓を鳴らしながら酒もりをして楽しんだもんだが、今は、沼がはきだめになっちゃったねえ、沼に行く気もしねえね。」

 
(2)  「家の天井は水害に備えて釘を打っていない。」
     
    ー手賀沼中央ー    我孫子市高野山 鈴木さんの話 38歳
           
手賀大橋から東に500m程の農家を訪ねた。

 
 「子どもの頃、泳いではいけないと言われていたが、沼へ行って泳いだもので、泳ぎができない子は沼の中にほうり投げたりしながら泳ぎを覚えさせた。5年生の頃には向こう岸まで泳ぎ切る程だった。もちろん沼の水はきれいだった。幅は800m位だったかな。カラス貝をとったのもおもしろい思い出で、夏は泳ぎながら足でさぐってとった。秋から冬の水が澄んで見える頃は、舟で行って、しの竹の先をけずって、底で口をあけているカラス貝にしの竹をさし込むと貝が口を閉じるのでしの竹をひき上げてとった。深さは1番深い所で2m位だったね。昔は藻が一面に生えていたけれど、今では1本も見られなくなってしまったね。釣りもよくしたが、昔は農家は1艘ずつ舟を持っていて舟着き場を持っていたので、そこで、フナ、ウナギ、ビタ(タナゴ)を釣ったものだ。手賀沼大橋ができる前は渡しがあって野菜などは我孫子の方へ運んでいた、柏へ出るより渡しで我孫子(大字我孫子の意)へ出た方が近いので、よく渡しが使われていたものだった。

 7月頃、小麦の脱穀作業があって、体に麦の穂の細かいのがついてちくちくして痛いので、風呂までは間があるし、そんな時は沼まで行って体を洗ったものだった。水害の歴史もある。私の家は少し高い所にあって被害は少ないけれど、水害対策をしてある。120年前に建てられた家で天井板は釘で打ちつけていなくて、いざ大水が来たというと、家具や畳を天井裏に引き上げられるようになっている。昔の人の生活の知恵なんでしょうね。37年に木下の排水機場ができてからは水害は全くなくなりました。子どもの頃は、大水が出ると田は水をかぶりますが、水が引いた後に田に逃げ遅れた魚が手づかみでとれておもしろかったんですがね。」と語ってくれた。

 (3) 「かも猟が盛んだった手賀沼」


     −我孫子市浅間前新田−     桜井さんの話 77歳

 
 
 「私ら若い頃冬はかも取り場だったんですよ。10月末から2月末までやったんですが、かも取りは4日おきにやりまして、月夜の晩にはできなかった。沼に網を張って取る方法でした。鳥猟組合があって終戦まで300年続いたそうです。敗戦で米軍が入ってきてそれまで禁止だった鉄砲を使ったので鳥猟ができなくなりました。とったかもは東京から鳥屋が買いに来ました。食用にしたんですよ、手賀沼のかも猟は、浅間から下の下沼(したぬま)でしかやっていなかったんです。当時は、かもがたくさんいましてね、夕方になるというと、餌あさりから帰って来る時など家の屋根すれすれに羽音を立てて飛んでいったもんですよ。鳥猟は一晩中番をしていたんですが、手賀沼の水でお茶をわかして飲んだんですよ、2mもの水の底が見える位沼の水はきれいでした。

 鳥猟をしない春から秋までは漁業をしていました。フナ、ウナギ、ナマズ、ライギョなどをとっていました。ライギョの天ぷらはうまいもんでした。魚屋が自転車で来て買って行って東京へ持っていったんです。フナなんかは焼いて、布佐駅から200人もいた東京への行商の人に渡していたんですよ。手賀沼のウナギは有名で、千住あたりに持っていったら、商売の人が選り分ける程だったそうです。千間堤は、丁度今の浅間の機場のそばを通っている道路のところにあったんですよ。あそこに堤を作って上沼に水をためて用水路を引いてこの辺の田んぼに使っていたんですよ。下のもんには都合が良かったんだけど、上の人は困って堤を切ったという話ですね、干拓されるまで跡があったんですよ。
 
 
(4) 水車があった大津川流域・上流水源池
    
 −大津川上流 鎌ヶ谷市初富入道池−  皆川さん・斉藤さんの話75歳・60歳

 
 斉藤 「私の所は明治2年に入植したのですが先祖の話ですと水豊かな池があったということです。流れは池から更に五香六実より上流にさかのぼっていた様です。私が子供も頃には窪地といった方が良かったと思います。水はきれいでどじょう、ふな等がおりました。」

 皆川 「私の所は明治22年に近くの入植地からこちらへ移住したのですが当時は流れに堰を造り水を湛え、その水を分流させ中溝に流し水車によって米、麦、粟などをついていた水車屋もありました。現在もその子孫は同じ場所に住んでおり水車屋といっております。斉藤さんが話された様に水はきれいで棲んでいた魚等も同様の種類のものです。斉藤さんの方は小字を架木橋と言い私の方は入道池と言います。豊作社という神社は開墾者の成功を祈って建立された神社ですね。そこには養蚕の絵馬が保存されております。」五香六実に住む石渡はな氏は、亡くなられた養父や主人は「冬の暖かい日などには良く入道池には小ぶなが群をなし泳いでいたのを見て、これは手賀沼の小ぶなが上がって来たものだ」と言われていたと言う。
 
 (5) 清水がいっぱい湧いていて水(農業用水)に不足しなかった
    
        −柏市名戸ヶ谷−  木村さんの話 84歳
 
 
 
 名戸ヶ谷小学校の西門近くに清水が湧き出している所がある。その近くの水田の持ち主の木村さん宅を訪ねた。「あのわき水は昔から出ていてかれたことはないね。あの水で、56反歩の田を作っていて、日でりが続いても平気だった。昔は、わき水がいっぱい出ていてサワガニ、清水ガニと言っただが、いっぱいいた。

 名戸ヶ谷落は、中新宿という所の清水から始まっていた。いっぱい清水があったんで、名戸ヶ谷は水引と言って耕作に水が不足したことはなかったんだ。耕地整理する前は水が余っていて、戸張に水をくれていた。名戸ヶ谷401番に戸張づけというのがあって田の仕事が始まる頃になると戸張の人が来て堰を作ってあかね町のへりを通して戸張へ水を流していた。戸張の人達は寝ずに番をしていた。昔は水が貴重だったからね。名戸ヶ谷落の水は飲めたね、きたなくなったのは、日立の会社ができてからだね。便所の水、ドブの水をせき止めておいて時間によって流した。それから、家がいっぱいできたからね。大津川は、昔は大川と言って、もっと大津ヶ丘よりの方を流れていた昔は魚がえらいいて、せき止めしておいてくみっかえをしてとったもんだ。雨が降るとたるを置きに行ったもんだ。かなりとれて、商売にしていたもんは、こが(さかだる)一杯もとっていたね。入るのはほとんど、どじょうだったね。

 農家で困るのは、ゴミやビンを捨てられるのが困る。家の廃物を夜持って来て捨てていっちゃう。清水の近くはガラばっかしだ。農家のもんは、人間から出る排泄物は平気なんだね、昔は人糞を牛車で流山の方まで買いに行ったりしたほどだ。だから、今ドブ川になっているけれど汚れた水は平気だけど、どうも洗剤が悪いようだね。せき止めて、水がゴーゴー落ちている所へ見に行ったけど、泡が盛り上がっていてすごかったね。」

 
(6) 聖井戸という清水があった
    
     −柏市名戸ヶ谷上郷−    薮崎さんの話 43歳

 
 薮崎恒雄家は、代々聖井戸の持ち主でした。「聖井戸」は昭和30年代までこの辺の十数軒の家で使っていました。天びん棒で肩にかついで運んできたんです。木の囲いがあって堀ってあったんですが水はきれいで湧いて流れていました。水神様で聖様という祠があったんですが、今は香取神社に合祠してあります。井戸のそばの道は古い道で水戸街道へつながっていたようです。私の家はどうも昔はあの井戸の近くにあったらしいんです。昔は小作の人は種モミなんかは地主の家で水にひやしたようなんですね。この井戸の水は年中流れていましたから、それを田んぼに引いて使っていたんですよ。野馬井戸というのは、緑ヶ丘の交番の近くに南に入り谷津があってそこにあったようだね。野馬井戸というのは、あのあたりに野馬土手があったから、小金牧の馬の水飲み場だったかも知れないね。

 名戸ヶ谷遊水地というのは昔は水田だったんで、遊水地と言うようになったのはつい最近なんですよ。光が丘団地ができて水がきたなくなり、都市化してきて百姓をやらなくなって田んぼがあれてきて大水なんか出ると田の中に水が入ってしまったんですね。もともとは遊水地じゃなく、15・6年前までは田んぼだったんですよ。今は宅地になってきれいになっていますね。」

 (7) 「農業用水として大切にしていた川に生活排水が流し込まれて
    米作りができなくなった」

     
     −大堀川上流 流山市駒木台−   鏑木さんの話 70歳
 
 
 
 鏑木さんのお宅は大きな屋敷森がある大堀川の水源の1つに近い所で、屋敷森の中には、話の中に出てくるしぼり水をためた堀の跡が残っています。「裏の林の中に堀があって、そこには林のしぼり水が湧いていてそれを田の用水にしていた。堀は時々掘るんだけど、大人がやっと土をはね上げれる程だったから、2m〜2.5m位だったかな。今の十余二にあった米軍基地の中に東だめというため池があって、今は団地になっているが、このあたりの田の用水を間に合わせていた。昔はこのあたりまで魚が上ってきた。大雨が降った後は特に多くて、うなぎ、たいわんどじょうや鮒なんかがのぼってきて貯水池に入っていたもんだ。川の水は農業用水にしていたきれいな水だったので、みんなも堀を大切にしていて流れがよくなるように草かりをしたりして川を守ってきたんだが、青田の団地ができて汚水が流されるようになってから

ダメになってしまった。川に汚れた水を流さないように反対したんだが負けちゃったね。この辺りの田は、ドブ田(湿田)でじくじくしているんで、いろんな所で水がわいている所がある。地下水位が高くて、この前も、家を直しに来た大工が穴を掘ったら水が出てきたんで困っていた。この辺の田は天然の水を堰でとめたりして大切に使っていた。他の地区には用水があるけれどここは天然の水だけだったのに、そこに住宅の汚水が流されてしまったので米作り
ができなくなってしまった。この下流は荒地になっている所が多いね、水田を作るには井戸を掘るしかないんだね。」と言いました。

 (8) 「大堀川の流域が工場排水の油で燃え上がった」

    
     −大堀川中流−    山沢さんお二人の話 55歳・84歳

 
 山沢さんのお宅は高田小前で工務店を営んでいる。山沢たけさんは流山市東初石1丁目の出身で、大堀川の水源の1つの森のすぐ近くで育った方でした。
 斉さん  「高田小の近くに水切り場という所があった。この水切り場というのは、利根川や手賀沼でとれたうなぎなどの魚を東京に天びん棒でかついで運んだもんだ。(うなぎ道)けれども魚が弱ってしまうので、途中できれいな水に入れて魚に酸素を与え、桶の水を取り替えて魚を弱らせないで運ぶためにあった。井戸の水を使っていたというけれど、堀の水も使っていたかも知れないね。

 春先に水が増えると、手賀沼のふなやうなぎがのぼってきたね。子どもの頃はよく魚がとれた。うなぎの置き針を夜にしかけておいて、朝学校へ行く時上げたりしたもんだ。」たけさん 「ためといって、高田には、上坪、中坪、下坪と、それぞれ農業用のため池を持っていたが、そこにはうなぎやコイはいっぱいいただ。ため池は今は公園になったり売られたりしている。ため池は湧水できれいな飲める水だった。

 私は初石で生まれたんだけれど、大堀川の上流で、とてもいい水が出たんだね、今は初石は家だらけだけど、元は田んぼだったね、今は江戸川台のきれいな団地になっているけど、あそこは山がすごくて子どもはいけないような山だった。そこから流れてきていたんだね。」

 斉さん  「川で遊べなくなったのは、37、8年ごろからだったと思う。農家の人は、みんなで堀をそうじしていたもんだが、川のゴミを堀の中で燃やせば危なくないので燃やしたところ、川の水に工場から流された油があったのか川の水面が燃え出しで、すごい火柱が上がって柏市の消防車が集まってきたことがあった。それで農家の人も川が汚れているということに気がついた。それから工場に交渉して排水をきれいにするようにさせた。江戸
川台や初石の水がみんなここに流れ来ている、ひどいよごれだね。」

 (9) 鮒や鯉が群をなして上っているのが見えた

     
      −大堀川下流−       染谷さんの話 65歳

 
 「このあたりにはずっーと清水がわいていて家の水に使ったりしていた。谷津田の奥には水がわいている所があって溜池を作って農業用水に使っていた。いい清水がわいていた所も開発でつぶされたり地下水位が下がったからか出なくなってしまった所が多いね。まだわいている清水があるけど大切にしなくちゃいけないね。

 大堀川は、昔は大堀と言ったんだが、清水や雨水しか入んなかったし、家庭の雑排水も各家庭で始末していたんで、水がきれいで川底には水草がいっぱい生えているのが見えた。春は産卵に上がってきたんだね、ウナギやモクゾウガニ、イモリなんかもいたね、イモリは魚釣りをするとよくかかったもんだ。戦後イモリがいなくなってエビガニが増えたんだね、イモリはエビガニ(アメリカザリガニ)に食われちゃったのかな、今もいるけど、カメもたくさんいたね。ウナギがこんなにいるのかとビックリしたのは、土用の丑の日だったかな、大堀川につながる小堀に鯉やウナギがたくさん死んで浮き上がっていた。誰か毒でも流したんだろう、目的はウナギをつかまえるためだったんだね。川の岸に穴をほっていっぱいいたんだね。

 松ヶ崎では、県から水利権をとって堰を二つ作って大堀川の水を農業用水に使っていた。堰がコンクリート製になったのは昭和10年頃かな、今ではゴミがいっぱいたまっているけどね、この辺が荒地になったのは結局下水が流されて川の水がきたなくなってからだよ、篠篭田の処理場ができてからだなあ、みんな田んぼを放棄してしまったね。」