(4) 手賀沼を語る

深山正巳手賀沼漁業協同組合長の話
     

   伝えよう手賀沼第2集 52・53ページの内容を掲載したものです。
   内容は 「伝えよう手賀沼を」第2集が発行された平成16年3月までのものです。
   
1. 手賀沼の洪水

 手賀沼はひんぱんに洪水にみまわれた地域です。手賀沼は利根川とつながっていて、昔は大正10年に作られた手動式の水門が3基あって、水位を調節していました。大雨が降って利根川の水位が上がってくると、水門を閉じてしまいます。そうすると、手賀沼の近くに降った雨水は利根川に流れ出せなくて、溜まってしまい手賀沼の周りは洪水となってしまいます。大洪水のたびごとに手賀沼周辺の農家では大変苦しめられたのです。わたしが子どもの頃に大洪水を2回経験しています。それは昭和13年と16年の洪水です。13年の大洪水の時には我孫子・沼南の台地のへりまで水が来てしまい現在の道路などは見えなくなってしまいました。(手賀沼が排水機場が出来た昭和31年以後は洪水の被害はほとんどなくなりました。)
 大洪水があった時には米は取れません。しかし驚くほどの、それは見事なウナギがたくさんとれるのでした。田んぼが冠水しますと山すその木に張り網の片方を固定し沖に向かってずーっと網を張りますと、これにウナギがたくさん取れるのです。さっぱ舟という舟が満杯になるほど取れたものでした。


2. きれいな手賀沼

 手賀沼の平均水深は「1.5m」です。昔は1.5mの水底まで見ることができました。そして、舟から水中をながめますと、魚の泳いでいる姿、「からす貝」が殻を開けて生活する姿が良く見えたものです。また、ウナギは冬場に入りますとまったくえさを食べず沼底の泥にもぐってしまいます。しかし、呼吸するための穴が水底に見えました。そして、このウナギを「うなぎかき鎌」という漁具でひっかけるのですが、要領の良い人は、朝早く来て呼吸穴を探すわけです。ウナギの習性なのでしょうか、うなぎかき鎌でひっかきますと、ウナギのどこにからまってもくるくると巻きついてくるのです。きわめて原始的な漁法の一つですが、百発百中でした。手賀沼の水がいかに澄んでいたかが分かるでしょう。
 「手賀沼といえばウナギ、ウナギといえば手賀沼」というほど手賀沼のウナギは有名でした。昔は、江戸の80%までが「手賀沼のウナギ」と言われて売られていたという話が残っているほどです。特に茨城県霞ヶ浦・北浦でとれたウナギを「ふくべざる」に入れて手賀沼で一夜つけます。そして、これを千住の川魚市場に運んで、「手賀沼のウナギ」として売ったという話が伝えられています。
 「からす貝」という大きな貝がたくさん取れました。「からす貝」は大陸バラタナゴが卵を産み付ける貝として知られています。昔、舟から水底をながめますと、「からす貝」が口を開けているのが見えます。これを、しの竹のような細い竹の棒の先を口にさしこみますと急いで口を閉じます。これを引き上げるという方法で半日もすると舟一杯に採れたものです。その位手賀沼はきれいだったのです。


3. 最近の手賀沼

 昭和30年頃から汚れ始めた手賀沼の汚れはそれはひどいものでした。昭和49年の環境庁が発表をしてから27年間ずっと日本一の汚れた沼であったわけです。それも、他の湖沼をはるかに引き離した1位だったのです。けれども、最近はずいぶんきれいになってきて、平成14年の数値では、日本で9位になりました。北千葉導水路で利根川の水を汲み上げ、柏の戸張から手賀沼に流し込んだのが大変効果的でした。また、さらに手賀沼の汚れた水が利根川に流れ出さないように、この漁業協同組合の横の敷地に国土交通省が礫間接触れきかんせっしょく酸化法さんかほうの浄化施設を作りました。この手賀沼漁業協同組合の前が曙あけぼの橋で、手賀沼の水が手賀川に流れ出す所です。水門から出た所で水を取り入れ、毎秒3m3の水を浄化して手賀川に戻しているのです。また、手賀川を流れる水が多くなりますので手賀川の護岸ごがんを堅固けんごにするためにコンクリートの護岸を考えていたようです。当時の建設省に蛇籠式じゃがごしきの護岸といって太い針金で編んだ籠の中に細かい石を入れた岸辺の土手にするよう何度も交渉しました。この土手も1年でアシやマコモなどの植物が茂るようになりました。岸辺に植物が生えると、魚の産卵場となり、又、水がきれいになるんです。

 ワカサギは手賀沼で採れる高値の魚でしたが、昭和30年ごろに採れなくなりました。昭和53年から諏訪湖や、北海道の網走から卵を買い入れて放流をしてきたのですが、水の汚れが卵の表面についてしまい失敗の連続でしたが、やっと14年の春に姿が見られるようになりました。漁師の話ですと、秋の漁ではだいぶ網に入ったそうで水質浄化の表れとして喜んでいます。