(3) 自然豊かな手賀沼と文化人



 北の鎌倉

    「伝えよう手賀沼を」 第2集 27〜30ページの内容を掲載したものです。
手賀沼は昔からたいへん景色のよいところとして知られ、多くの文化人が訪れました。

文化人が多く住んでいたことでは神奈川県の鎌倉が有名ですが、我孫子にも多くの文化人が来たので、東京より北にある我孫子は、北の鎌倉と呼ばれることもありました。

 また、手賀沼付近の風景が、緑が豊かで海に近く坂道が多いという鎌倉の地形とよく似ていることも、多くの文化人が手賀沼を好きになった理由とされています。

  志賀 直哉     (しが なおや)          1883〜1971          

  武者小路 実篤 (むしゃのこうじ さねあつ)   1885〜1976          
 
  中  勘助      (なか かんすけ)         1885〜1965           

  瀧井 孝作      (たきいこうさく)           1894〜1984          

  杉村 楚人冠   (すぎむら そじんかん)     1872〜1945          



 
 そのほか、

   柔道家        嘉納 治五郎 (かのう じごろう)  1860〜1938         
   民芸運動を進めた 柳 宗悦 (やなぎ むねよし)     1889〜1961         
   陶芸家        バーナード・リーチ            1887〜1979  

などの人々がいます。まず、文学者の中では志賀直哉と武者小路実篤が最初にやってきました。この二人は「白樺(しらかば)」という文学雑誌で活躍していました。民芸運動を進めた柳 宗悦の別荘が我孫子にあったので宗悦に誘われたのです。また、柳 宗悦の別荘ではバーナード・リーチが窯(かま)を築き、焼き物を作っていました。
 志賀直哉

 “小説の神様”といわれた志賀直哉は大正4年(1915)の33歳の時、我孫子に移り住み、大正12年(1923)まで住んでいました。ここで、代表作の「城の崎にて」「小僧の神様」「和解」を書いたほか、手賀沼の自然を小説の中に取り入れた「雪の日」「雪の遠足」「好人物の夫婦」などの作品が生まれ、また、ただ一つの長編小説「暗夜行路(あんやこうろ)」の前半部もここで書かれました。

 「雪の日」という作品の中では「雪はふってふっている。書斎から細い急な坂をおりて、田んぼ路に出る。沼の方は一帯にうす墨ではいたようになって、いつも見えている対岸が全く見えない。沼べりのかれ葦(あし)が穂に雪をいただいて、そのうす墨の背景からクッキリと浮き出している。その葦の間に、雪の積った細長い沼舟が乗り捨ててある。本当に絵のようだ。」(分かりやすく書き直してあります。)

 また、「好人物の夫婦」の中では、「深い秋の静かな晩だった。沼の上を雁かりがないて通る。細君は食台の上の洋灯を端の方に引き寄せてその下で針仕事をしている。良人はその傍に仰向けに寝転んでぼんやりと天上をながめていた。」 (分かりやすく書き直してあります。) と、手賀沼自然の豊かさを表現しています。

 志賀直哉が我孫子に住んでいた時の家は、もう残っていませんが、書斎として使っていた建物が我孫子市の弁天山の公園に復元されています。


 
武者小路実篤


 志賀直哉の親友で白樺派という文学グループで活躍した武者小路実篤も手賀沼の自然の美しさをとても愛した一人でした。武者小路実篤と志賀直哉は同じ学校のクラスメイトで、また、実篤は志賀直哉の親戚しんせきでもありました。武者小路実篤は大正5年(1916)から、自分たちの理想を目指して作ろうとした「新しき村」建設のため、九州に旅立つ大正7年まで我孫子の船戸に住んでいました。その家は現在も保存されています。

 「或る男」という作品の中では、「我孫子の生活はきまっていた。後は朝飯前に彼のいわゆる朝飯前の仕事をすませて、朝飯を食うと、来る人がいないと柳から志賀の方へ出かけた。そして夜まで、志賀のところへゆくこともよくあった。彼は出かけることが好きで、志賀はとめることが好きだから、志賀のところへゆくとおちついた。昼飯か、晩飯はたいがい、柳か志賀のところで食った。志賀や柳も時々来たが、彼が二度ゆけば一度来る位いのわりであったろう。そして毎日に逢っていた。」(分かりやすく書き直してあります。)

 「翌日、彼の我孫子の家には大勢の人が集って来た。彼が日向に土地をさがしにゆくので、お別れの集りだった。…夕日が雲に反射して、それが手賀沼を金色に染めた。人々はその美におどろき、また興奮した。…彼はその珍しい美しさをその日の夕、特に恵まれていたのを感謝した。彼の運命が暗示されているように思えた。」(分かりやすく書き直してあります。)と、書いています。


 
中 勘助

 「銀の匙さじ」の作者として知られる 中 勘助 は「沼のほとり」という作品の中で我孫子で生活したときのことを次のように書いています。

 「私は沼のほうへ降りた。…みぎわの葦はいつしか青くなった。どこかにほおじろがなく。三月豆の白い花、水水しい葉、錫(すず)色に暮れゆく沼、そのうえをしずかにすべる田舟、ぼちぼちと見えるかるの群。なぎさになびくやなぎの木や、風が鳴らす鳴子の音。それらのものはいつになく私に都を遠くはなれたような寂しさうれしさをおぼえさせた。」(分かりやすく書き直してあります。)

 中 勘助は大正9年(1920)から3年間ほど我孫子に住んでいました。
 瀧井孝作

 小説家の瀧井孝作は志賀直哉の勧めもあって大正11年(1922)から我孫子に住むようになりました。彼はここで代表作の「無限抱擁(むげんほうよう)」を書きますが、その間に、志賀直哉は京都に引っ越してしまいました。

 「大正12年3月7日に、志賀さんは京都に移居、私は無限抱擁の原稿ができ上がるまで、我孫子に残りました。離れの書斎の前は、崖下の雑木林の梢ごしに、手賀沼のけしき…」(分かりやすく書き直してあります。)と、「無限抱擁の頃」という作品の中で我孫子に住んでいたころのことを書いています。
 杉村楚人冠
  
  ジャーナリストとして有名な杉村楚人冠が我孫子に住むようになったのは大正12年(1923)の関東大震災の後です。本名は広太郎といいアサヒグラフを創刊するなど朝日新聞社で活躍しました。また、俳句のグループをつくり、随筆などで手賀沼のことを紹介もしました。

 「夏の朝、いずこを指していずこにいくということもなく、小舟を乗りまわす。葦をわけ、真菰(マコモ)を開き、藻(モ)の花に乗り、河骨(コウホネ)の上に浮ぶ。夏の夕、夕闇のせまる岸の細道をたどたどと行けば、人もなげに蛍がわれとすれすれに飛びかい遠くとのみ聞きなした梟(ふくろう)が、ほろほろとつい頭の上でなく。」(湖畔吟)

 「夏至る毎に湖面に名も知れぬくさぐさの草が花を開く。布袋草(ホテイソウ)の紫や、河骨の黄など、色とりどりの花がさく。野生の睡蓮(スイレン)が黄がかった白い花をつける。花は小さいが、野生だけに一種の野趣が溢れて愛すべし。見たことはないが、蓴菜(ジュンサイ)も沼のどこやらに咲いているそうな。水底におうる藻が夏は茂って、水の中を見下すと、澄みきった水の底一面がさながらの草むらとなっている。」(続湖畔吟)(2つとも分かりやすく書き直してあります。)


 
我孫子に住んだ文化人や著名人


 手賀沼は大正のころから別荘地として有名でしたが、最初に別荘を作ったのは嘉納治五郎でした。嘉納は柔道家として世界でも有名で、講道館を創設し、柔道界への貢献はたいへん大きい人です。また、IOCの委員として、日本でのオリンピック開催に努力しましたが、太平洋戦争のため実現しませんでした。
 柳 宗悦
 
 大正3年に、嘉納のおいの柳 宗悦が我孫子の天神坂というところに住むようになりました。柳は民芸運動を始めた人で、人々の生活に根差したものの中に美しさを見つけようとしました。また、それまであまり省みられなかった朝鮮半島の芸術にも目を向けました。柳が集めたものは東京駒場の日本民藝館に収蔵されています。柳は我孫子での生活がかなり気に入っていたようで、「我孫子から」という作品の中で次のように書いています。

 「夕方日が沈みかけて、空が紅の色に染まる頃、沼ごしに富士山をいく度見たか分からない『入り日が綺麗だこと』『富士が素敵だ』ともかく一家のうちで先に見つけたものがこう叫ぶ。よく志賀(直哉)の家の窓から、首をのばして大人から子供から下女まで、西の空を眺めたものだ。ここは地上の美しい場所の一つと自分はよく思った。」(分かりやすく書き直してあります。)


 柳や志賀を慕って、我孫子を訪れた人は多く、中には、小説家の芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)、岸田劉生(きしだりゅうせい・画家)、有島武郎(ありしまたけお)、生馬(いくま、作家・画家)濱田庄司はまだしょうじ・益子焼の陶芸家)、バーナード・リーチなどがいました。濱田庄司やバーナード・リーチは柳の民芸運動に深く共感を持ち、柳と親しく付き合いをしていましたが、特にバーナード・リーチは我孫子に移り住み、柳の別荘の窯で作品を作るほどでした。
 バーナード・リーチ

 バーナード・リーチはイギリス人で、中国のホンコンで生まれました。幼くして来日し、一度イギリスに帰りましたが、再び日本にやって来ました。柳の紹介で日本の焼き物を研究します。
 我孫子では、大正5年からの3年間、焼き物作りに打ち込みました。その時のことは「東と西をこえて」の中に詳しく書かれています。

 「夜になると柳と私は度々討論を重ねた。また白樺派の志賀や武者小路も参加した。…彼ら二人とも、名声を博しつつある作家で近所に住んでいたのだ。また、しばしば東京から来る若者たちとも討論することもあった。…それは人生における何とすばらしい時期だったことか!これは準備の整った土地に種をまく期間であった。あの東に何マイルも伸びた夢のような細長い沼は今も私の瞼の裏にくっきりと想い起こせる。」(分かりやすく書き直してあります。)


 そのほか、手賀沼を愛した文化人に、柳田国男 (やなぎだくにお・1875〜1963)がいます。柳田国男は民俗学者として有名で、生まれは兵庫県でしたが、兄が布佐にいたので、少年時代、兄の家で過ごしたことがありました。また、我孫子生まれで、歯科医師会の会長を務めた血脇守之助(ちわきもりのすけ・1870〜1947)、や湖北の生まれで手賀沼の植物の研究で有名な東京大学教授中野治房(なかのはるふさ・1883〜1973)、日本の気象学の権威で中央気象台長を務めた岡田武松(おかだたけまつ・1874〜1956)、などがおり、中野や岡田は村長を務めたりみんなのために図書館を作るなどして、郷土の文化の向上に貢献しました。