(2) 手賀沼の歴史・干拓

 
 ☆  手賀沼の生いたち  「伝えよう手賀沼を」第2集 24〜26ページより掲載したものです。
       (1)手賀沼の周辺の地形
(2)手賀沼のでき方
(3)手賀沼周辺の地層
 
 ☆  手賀沼干拓の歴史
 
 ☆  手賀沼干拓に関する資料  

    千葉県農林センターホームページにリンクしています。 

     洪水や干拓工事の写真・干拓前の昭和30年頃と干拓後の平成10年頃の手賀沼の面積のなどがわかります。
・ 手賀沼干拓への試み         
・ 手賀沼干拓事業
・ 手賀沼と干拓完成後の手賀沼の比較
 
手賀沼の生いたち

 (1)手賀沼周辺の地形

手賀沼は、下総台地の低地にできた
昔の海のあとです。それは地形図
(図1)からも想像できます。沼をは
さんで南北にある沼南町と我孫子
市には、海抜10m以上の台地が東
西方向にならび、その台地のへりは
急な斜面になっています。そして、
低地は東の方向に続き、利根川や
印旛沼の低地から、鹿島灘(かしま
なだ)に続いています。 

 (2)手賀沼のでき方

    手賀沼は下総台地が水のはたらきでけずられた、谷間の低地にできた沼で、
   昔は海でした。
    関東平野一帯は、深い海や浅い内湾や陸地といったさまざまな時代があって、
   今の姿になりました。
 古東京湾の時代
  
  今から約40〜10万年前までの内湾(古
 東京湾)の時代には、地球の気候の変化
 により、 海面が上がったり下がったりを
 くり返しましたが、おおよそ今より温かい
 時代が多く、浅く静かな内湾の時代(図2)
 が続きました。温かい時期には氷がとけて
 海面が上がって海が広 がり、寒い時期
 には海面が下がって陸地が広がりました。

常総粘土層(じょうそうねんどそう)
  たい積の時代


約8〜6万年前には寒い時期になって、
海面が今よ100m以上も下がりました。
古東京湾の時代に厚く土砂がたい積
した海が浅くなり、湿地や川のはんら
ん原(竜ヶ崎りゅうがさき砂さ層)がで
きました。
陸地になったところは水の作用でけず
られ、深い谷(図3)ができました。
手賀沼や印旛沼や利根川の低地一帯
も深い谷になりました。
その頃、富士山や箱根山の火山活動
が活発になり、海底や台地には、火山
灰(関東ローム層)が厚く降り積もりま
した。

  縄文海進(じょうもんかいしん)の時代

   約1万数千年前になると温かくなり、約1万年前頃には、今の気候  に近くなりました。
  すると海面が上がり、深くけずられた谷には海水が入り込み、多くの谷は細長い海(入江)
  になりました。約6千年前には、海面が今より10mも高かったと考えられています。
  手賀沼や印旛沼から鬼怒川のあたりまで海になり、鹿島灘に開いた奥深い入江になりま
  した。 古鬼怒湾(こきぬわん)図4-a といわれています。

   この時代は、人類の歴史からみると縄文時代にあたります。この頃になると、人の生活
  の跡が見られるようになり、関東地方の各地に貝塚が残っています。縄文人の残した貝
  塚は、ちょうど台地のへり(図4-b)にあり、その当時の海岸線をたどることができます。
  この時代の海の広がりを縄文海進といいます。

         
 
 湖沼ができた時代

  この海の広がりによって、細長い海に土砂がたい積(沖積・おきせき層)しました。
 その後海がしりぞき、たい積した海底が地表に表れて陸地になりました。それより
 低いところにはそのまま水がたまって湖や沼になりました。

  霞ヶ浦(かすみがうら)や印旛沼そして手賀沼などはその名残です。江戸時代頃
 から、手賀沼の岸辺は少しずつ干拓が進み、今のようになりました。



(注) 整合・不整合二つの重なる地層が、 時間的にほぼ連続してたい積している場合を整合という。

 それに対して、たい積した地層が隆起し、陸上で浸食作用を受けた後、その上に新しい地層がたい積したとき、両者の関係を不整合という。この場合、たい積の時間的関係は不連続である 
   

 (3) 手賀沼周辺の地層

 千葉県の北西部にある手賀沼周辺は、千葉県のなかでもっとも新しい時代、約180万年前よりあとにたい積した地層からできています。
 この地層は、おもに浅い内湾の海や湿地などにたい積した土砂でできています。(写真)
 
 手賀沼のでき方については、おもに気候の変化によって、海面が上がったり下がったりをくり返し、たい積や浸食されてできました。手賀沼周辺にある崖の面を観察すると、その証こが残されています。
 もっとも下には成田層(上岩橋層・かみいわばしそうの上に不整合・ふせいごうに木下層・きおろしそう)、その上には不整合(注)に竜ヶ崎砂層と整合(注)に常総粘土層がかさなり、もっとも上には関東ローム層が全体を不整合におおい、沼や川の周辺には、最後にたい積した沖積層で埋められています。これが手賀沼周辺で見られる代表的な地層の重なり方(図5)です。
      
手賀沼干拓の歴史

 <出展> 東葛教育研究所 研究協力員   佐々木 牧雄氏

1671  江戸の商人、海野屋作兵衛が新田を開発する。

1681  利根川出水、堤防決壊

1688  利根川出水、圦樋(いりひ・水門のこと)こわれ手賀沼が洪水になる

1700  利根川出水、圦樋こわれ手賀沼が洪水になる

1712  利根川出水、圦樋こわれ堤防決壊、手賀沼が満水になる

1723  利根川出水、圦樋こわれ手賀沼が満水になる

1727  江戸の商人高田友清、千間堤を作って沼を区切り、新田を作る

1734  手賀沼洪水、千間堤あふれる

1738  手賀沼洪水、千間堤こわれる

1742  利根川大洪水、木下で堤からあふれる

1753  利根川洪水、圦樋がこわれる

1757  利根川洪水、圦樋こわれ堤防が200mこわれる

1766  利根川洪水

1780  利根川洪水、手賀沼洪水

1781  利根川洪水、手賀沼洪水

1783  浅間山大噴火、利根川・手賀沼洪水

1785  老中田沼意次手賀沼を干拓して新田開発

1786  利根川大洪水、圦樋こわれ手賀沼大洪水、干拓失敗

1791  利根川満水、圦樋こわれ手賀沼洪水

1812  利根川大水、手賀沼が水害

1824  利根川大出水、圦樋がこわれ手賀沼洪水

1846  利根川大洪水、手賀沼も洪水

1857  手賀沼洪水

1870  利根川満水、堤防がこわれ手賀沼大洪水

1890  利根川大出水、圦樋・堤防がこわれ手賀沼大洪水

1910  利根川出水

1916  手賀沼氾濫

1938  手賀沼大洪水

1941  利根川・手賀沼大洪水

1950  利根川・手賀沼出水2700haが被害

1968  手賀沼干拓完了、435が水田に、沼の面積半減

手賀沼干拓に関する資料


      手賀沼干拓への試み
      手賀沼干拓事業
      手賀沼と干拓完成後の手賀沼の比較


に関する資料が千葉県農林センターホームページ、「東葛飾地域の歴史・変遷」・
(平成16年4月1日基盤整備部)にあります。
リンクされています。